短歌というのは、詠み人の意志に関係なく、いろんな読み方ができるし、正反対の感じ方で受け取っても良い。
意味や味わい方が決まっているわけではなく、逆に色々な感じ方ができる方がかえって良かったりする。
だから古典であっても、解釈が分かれるモノはたくさんあるのは当然だ。
ところが国語の授業などでは、そう言った曖昧さを楽しむものだということは、あまり強調されてこなかったように思う。
特定の評価が正解で、それ以外はダメという形で授業が進むが、これはかなり危険なことだと思う。
というのも、国語というのは、常に曖昧さを前提としていることを意識しなければ、無茶苦茶になってしまうからである。
算数や理科とは異なり、定義はあっても実はそれは定義ではない。
言葉の意味は時代ごとに変化して行くものだし、それを用いる人の価値観も、時代や置かれた立場によって異なるわけだから、曖昧な中から何かを探し当てなければいけないという態度でないと、話にならない。
日本の国語教育は、一番質が悪い?
そういう意味で考えると、日本の国語教育に当たる人間は、そうとうハイレベルな人でないと務まらないはずだ。
ところがどうも日本では、逆にレベルの低い人が国語を教えているような気がする。
個人的に思い出すのは、中学生時代のひどい国語の教師のことだ。
この教師は、短歌や俳句で、いつも1人で感慨に耽っていて、他の解釈を生徒がすると、烈火のごとく怒った。
人生経験が十数年しかない子どものことだから、思いつくままいろんな解釈をするのだが、それが一々気にくわなかったらしい。
もともと曖昧なモノなのに、それがキチッとしていないと気が済まないと言うのは、国語の教師としてはどうなのか。
この教師は、自分の授業はしっかりやるが、他の科目の自習時間に監督しに来たりすると、必ずと言って良いほど、共産党の機関誌である赤旗の宣伝をするような教師だった。
しかもたいていいつも不機嫌で、不良の面倒見は良いが、目立たない生徒のことなんか、全く省みなかった。
要するに、曖昧なモノは、その先生の価値観に勝手に塗り替えてしまい、しかもそれを生徒に押しつけていたわけだ。
俳句や短歌というモノは、それを読む人によって解釈や感じ方、共感できる部分が違う曖昧なものだから、自分の好きなように解釈して良い。
自習時間というのは、決まったことをやるわけではなく曖昧なものだから、自分の好きな赤旗の宣伝をしても良い。
生徒の指導だって、どの先生が誰を指導すべきかというのは曖昧なことだから、自分の指導したい生徒だけ見て良い。
グレーゾーンは、全部自分のモノ。どうやら、そういう思考パターンらしい。
こういう人は、自分のことを『情に厚い』とか思っているのかもしれないが、傍から見たら、えこひいきと自分勝手のカタマリのような存在だ。
残念ながら、個人的には、国語の先生には、そう言うタイプの先生がたまにいるように思う。
国語をなぜ学校で学んでいるか。何のために国語教育が必要なのか。
少なくとも楽しみのためでも、教師が勝手な価値観を押しつけるためでもないと思うのだが。
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