国語の成績が悪いのは(27)世界は言葉で造られている

法相宗(ほっそうしゅう)という宗教がある。

 

法相宗というのは仏教の一つの宗派だけれど、知る人ぞ知るという宗派だ。

 

というのも奈良の薬師寺、興福寺、聖徳太子でおなじみの法隆寺や、清水の舞台で有名な京都の清水寺などは、実はみんな法相宗系の寺院なのである。

 

法相宗は別名、「唯識(ゆいしき)仏教」とも言われる。

 

唯識というのは説明するのが難しいが、思い切って一言で言ってしまうと

 

「五官によって関知された情報から創り上げられたイメージが世界の全てだ」

 

という考え方だ。

 

我々人間は、見たり聞いたりした情報をイメージとして統合する。
これを「意識」と呼ぶ。

 

(意識とか認識という言葉は、もともと仏教用語なのだ)

 

その意識・イメージに対して、いろんな感情や感覚のタグを付けて
脳の奥にしまい込む。(ナヤ識、アラヤ識)

 

たとえば犬を見たときに、ニコニコして寄っていく人と
逆に怖がって逃げて隠れる人がいる。

 

同じ犬を見ているのに、なぜこういう違いが起こるのだろう?

 

これは犬というイメージに付けられたタグが、人によって違うからだ。

 

ある人は、犬というイメージに「可愛いもの」というタグを貼っている。
別の人は、犬に対して「怖いもの」というタグを貼っている。

 

だから同じ犬を見ても、好きな人と嫌いな人に別れてしまうってことだ。

 

そしてそれがその人にとっての世界の全てであり、実際の世界というのは「空(くう)」、つまり実物というモノは何にもないっていう話である。

 

色即是空(しきそくぜくう、カタチあるモノは全て「空」である)は、仏教の根本教義だけれど、そういうふうに「空」を捉えるのが
法相宗、唯識仏教と言うものだ。

 

 

フェルディナンド・ソシュールと唯識

この唯識では、目に見えるモノを区別しているのは、色だという。

 

たとえば目の前にパソコンがある。

 

しかしそこにパソコンがあると見えているのは、色の差で認識しているのに過ぎないと言う。

 

パソコンと空間の間には色の違いがあって、その差によってそこにモノがあると認識するわけだ。

 

パソコンの画面上には、いろんなモノが表示されるが、立体的に見えるウインドウなども、2次元の平らな画面上に映し出されているだけで、浮き上がって見えたり、立体的に見えるのは、灰色などで影をつけたりして色の差で表現しているだけだ。

 

言語も音の差であって、あ・い・う・え・おというのは、他の音と比べて差があるからこそ分かるモノ。

 

西洋にも似たようなことを真剣に考えていた言語学者がいて
その名をフェルディナンド・ソシュールという。

 

ソシュールによると言葉は音の差によって認識されるモノで、さらに世界も言語によって差が認識されると考えた。

 

一言で言うと、「世界は言葉でできている」ってことだ。

 

物理的な世界は、物理的にできているのであるが、我々人類にとっては、世界というのは
言葉によって境界線が引かれたモノなのである。

 

言葉によって我々人類は世界を認識し、その認識を元にしていろんな物を考えている。

 

たとえば犬とオオカミは、生き物としては大きな違いはない。

 

チワワとシベリアンハスキーとオオカミを並べたら、ハスキーとオオカミが同じモノで、チワワは別の生き物だと見えてもおかしくない。

 

しかし犬という言葉によって、チワワとハスキーが同種の生き物で、オオカミは別のモノとして捉えられている。

 

また去年の京大の英語では、ニュートンのプリズムの実験がテーマの英文和訳で
虹の色がイギリスでは6色に見えているという
下線部和訳が出題されていた。

 

日本人には藍色と青色が別の色に見え、7色に見えるのだけれど、イギリス人にはその区別がないので
6色にしか見えないという話だ。

 

こういう風に、言葉が存在しないとモノの区別ができず、そういう状態で世界というモノが規定されている。

 

「葛藤」とか「ジレンマ」「トリレンマ」なんていうのも、心情を表す言葉ではあるが、境目のハッキリしない感情を
言葉によって境界を造って区別している。

 

すでに存在するモノに名前が付いているのではなくて、名前を付けるから、そのものが他のモノと区別されるというのは、たまに国語の問題で出題される話だから、言語の限界の話と合わせて、ちょっと覚えておくと良いね。

 

子供に説明するときに重要な知識だし。

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