国語の成績が悪いのは(15)エッセイと評論の違いは?
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中学受験の国語の問題は、子供に「道徳」や「常識」を求めているという話がある。
特に中位以下の学校の場合、他の人の気持ちが分かったり、みんなの気持ちが分かったりすること、ということを要求しているという。
なので、世の中の常識というモノがわかっているかが
非常に大事になってくる。
実際、文章中をいくら読んでも選択肢が選べない場合も多く、道徳の観点からでしか答えが選べなかったりする。
だから、常識のない子供や、他人の気持ちが分からない子供は
国語の問題が苦手になると言う。
ところがこれは、小説や物語文の問題を解く場合であって、評論文の場合は、逆のことが求められる。
つまり、道徳や常識があると、逆に解けないこともあるわけだ。
評論文は、常識を疑う
論説や評論といった文章は、たいていは一般常識を疑う文章だ。
疑わない場合もあるのだけれど、原則としてその文章を書いた著者は、何か世の中に「言いたいこと」があるわけだ
一般常識を疑うほかには、世の中の大原則に異を唱える場合もあるし、日常生活での若者のマナーに文句を言うこともある。
しかし評論がエッセイ・随筆と大きく違うのは、結論はハッキリしている
ということだ。
エッセイや随筆というのは、結論はハッキリしていない。
「~なんじゃないかと思った」
「~であるべきのような気がする」
「~と私は思うが、あなたはどうか?」
結論はあるようでいて、それをハッキリ示さない。
エッセイや随筆は、人によって価値観が違うという前提で、「自分はこう思う」というコトを書いているからだ。
しかし論説や評論というのは、著者が、自分の言いたいことを
読者にプレゼンしている文章だ。
言いたいことは原則として一つであって、それをいろんな例を引き合いにしながら、読者に納得させようとしている。
だから、著者が一体何を言いたいのか、それを突き止めることが大事になる。