国語の成績が悪いのは、、(4)メタ認知・我が強すぎる
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算数はできるのに、国語の成績が悪い子供の場合、何を答えるのかよく分かっていないことが多い。
算数の場合は、答えるモノは基本的に数字や数値だから、あまり説明する必要がない。
「116回」とか「2360平方センチメートル」と書けばよいだけだ。
ところが国語の場合、何を求められているのかよく分からない。
物語文だと、「主人公の心情」を読むこと。
説明文だと、「筆者のイイタイコト」を理解すること。
一言で言うとこれだけだけど、子供時代にメタ意識やメタ認知を持つのは難しいから、なかなかうまく解けないのも当然だ。
子供の場合、物語文はついつい誰かに感情移入してしまう。
感情移入してしまうと、自分に体験のある事件と結びついてしまうので、主人公の心情と、自分の心情が混ざってしまう。
一方、説明文・論説文の場合は、自分の意見や常識にとらわれてしまう。
こういう文章は、「常識を疑う」というパターンの文章が
出題されることが多い。
だから、自分なりの意見を持っているとかえって読みとれない。
現代文のカリスマ講師・出口汪(でぐちひろし)さんの本には、「東大を受験しようかと言う生徒に限って、現代文が正確に読めない。
それは自分なりの意見や常識を持っていて、それが混ざってしまう」
というような事が書かれていたように記憶している。
私なんか大学合格後まで、自分の常識や意見に支配されていたが、こういう子供は、ついつい自分の意見を優先して、自分の意見や自分の望むことにあった答えを選んでしまうわけだ。
自他の区別が付き、自分の意見と他人の意見の区別ができないと、国語の問題というのは、なかなか良い点数が取れないものだ。
メタ認知とは、自分を他人と同列に見れること
国語の問題を解く場合、自分の意見や常識は、とりあえず横に置いておかないといけない。
問題文の中には自分の意見や常識とは別の世界が存在して、そこでは自分の常識や意見、そして望む結果とは違う事が通用する。
こう言うのをメタ認知などと呼ぶこともあるが、自分は自分で、他人は他人、それぞれ別の考えや常識があるのだ、ということが腑に落ちていないと、文章を客観的に読むことはできない。
こういう事は、多感な小学生にはなかなか望めないことだ。
わたしなど、大学浪人時代にようやくそう言うことに気づいた。
大学を中退した時点でもまだ、自分と他人の区別がうまく付けられなくて苦しんだ。
だから中学受験の問題で
算数・国語とも高得点を取れる子供というのは、かなり特別な子供だというのが印象だ。
そしてメタ認知ができると点数は上がるが、一般的には、つまらない人間とみなされたりもするから、なかなか難しい。